| 「済州島四・三事件」から「統一」を考える
1945年9月6日、日本の植民地支配から解放された朝鮮に夢にまで見た自主独立国家、朝鮮人民共和国の樹立が宣言された。しかしそれも束の間、2日後の9月8日南朝鮮に進駐した米軍政はこれを頭ごなしに否定し、各地で組織された人民委員会(地方自治機関)を全面的に弾圧し始めた。米ソによる朝鮮半島の「38度線分割案」は朝鮮民衆の意志とは無関係に日本の敗北によってすでに決定づけられていたのだ。こうして朝鮮民衆の念願は、またしても大国によって踏みにじられたのである。
同年12月のモスクワ三国外相会議では米ソによる朝鮮半島の信託統治実施が決定された。しかしこの決定は、第2回米ソ共同委員会の決裂後、アメリカによって放棄され、朝鮮問題はアメリカの主導下にある国連に委ねられた。そして、1948年5月10日、南朝鮮地域だけの単独選挙が実施されることとなった。祖国解放から3年、今まさに祖国が分断されかねない局面に朝鮮民衆は立たされたのである。
その頃済州島では、米軍政とそれによって送り込まれた警察や、西北青年団などの右翼青年団による暴力が横行し、それに対する島民の怒りが極限に達していたという。そして、1948年4月3日単独選挙を前にした済州島の人々は武装蜂起に立ち上がったのだ。彼らは大国とその追随者による分断と支配を阻止するため果敢に抵抗したのである。そして、南朝鮮で唯一、単独選挙を完全に阻止したのだ。今から60年前のことである。
しかし願い叶わず、同年8月15日、南朝鮮で大韓民国が成立した。その後、漢拏山へ入った「武装隊」への武力弾圧はいっそう激しさを増し、それは彼らに内通したという理由などで住民にまでおよんだ。例えば1949年1月、朝天面北村里では国民学校の運動場に集められた住民数百名が付近の農地で銃殺されている。それは朝鮮戦争下で過酷を極め、予備検束された住民や左翼活動家に対する集団的虐殺が繰り返された。
この事件は1954年9月「武装隊」の「全滅」によって終焉をむかえました。この間の死亡者数は2万5千人から3万人と推定されています。しかし、彼らの亡骸は手厚く葬られることは決してありませんでした。それどころか、生存者は「暴徒」やその家族という汚名を着せられ、社会から疎外されてきたのです。なぜなら済州島4・3人民蜂起は、「韓国」という国家の正統性を根底から問う闘いであり、それ故、権力者にとっては闇に葬る必要があったからです。
しかし事件の真相究明は、韓国の民主化にともなって大きく前進しました。1999年、金大中政権下で「四・三特別法」が制定されると、2003年10月盧武鉉大統領は済州島を訪れ、国家元首として初めて島民に対して謝罪しました。その時、島民はみな涙したそうです。
「統一」とは何か?それは「分断」を克服することである。では「分断」とは何だろうか?
私は祖国の統一を考えるとき、この「済州島四・三事件」を考えてみます。済州島の人々にとって分断とは何だったのか。それはまさに「虐殺」ではなかったでしょうか。分断固定化時代においてその「虐殺」は正当化され、分断体制は「死を再生産」し続けてきました。しかし、6.15時代の今、それから解き放たれようとしています。島民の涙はそれを物語っていると思います。
済州島四・三人民蜂起から60周年を迎える今日、死者は私たちに何を語るのか、耳を傾けなければならない。自主統一の新時代はそこから切り開かれていくと思うからである。
(朴重信−留学同大阪 委員長) |