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在日朝鮮留学生同盟中央本部
 
  
 
  ≪留学同通信≫No5 特集  
   
  ハンセン病と在日朝鮮人
 
     
 


去る11月9日、「KS医療・福祉ネット 秋の全国交流会」が行われ、東京都清瀬市にある国立ハンセン病資料館と、それに隣接する国立ハンセン病療養所である国立療養所多磨全生園を訪れました。

資料館にはハンセン病とハンセン病患者の闘争の歴史、「らい予防法」廃止までの歴史が展示されていました。展示内容を見ていくうちに、なぜハンセン病患者の人権がこんなにも踏みにじられてしまったのかという疑問を強く抱くようになりました。

ハンセン病(らい病)とは1873年にノルウェーのハンセンが発見したらい菌によって、主に皮膚や抹消神経が侵される感染症の一つです。

この菌の毒力はごく弱く、感染しても発病することはきわめてまれであり、現在では年間罹患者は数名程度しかいません。

しかし、感染力が弱いにも関わらず顔面や四肢の変形などという外見上の変化がみられることや遺伝病という誤った認識が根付いていたため、ハンセン病患者とその家族に対する差別は極めて厳しいものでした。

ハンセン病患者のいる家族は村八分にされ、家族にハンセン病患者がいるという理由で結婚を断られることもありました。

また、ハンセン病患者に対する差別は国によっても行われます。

療養所への強制入居、強制隔離、遺伝病でないということが判明していたにも関わらず、断種手術や人工妊娠中絶なども行われました。

これらのことが記載された法律、「らい予防法」は1953年に改定されたものですが、1943年にプロミンという化学療法剤が作られたのにも関わらず、国は法律によってハンセン病患者に対する差別を続けました。

この「らい予防法」は1996年に「らい予防法の廃止に関する法律」が施行されるまで残り続けました。

このようにハンセン病患者は長きに渡って差別を受け続け、その差別を助長したのは本来彼、彼女らを守るべきであった国であったのです。国が法律、制度的に差別を行うことによって社会的な差別が許容、肯定されてしまっていたのです。

ハンセン病患者の中には多くの在日朝鮮人もいました。

ほとんどが生活のため日本に渡って来た人々であり、強制連行された人もいました。療養所は数人が同じ部屋で暮らす共同生活であったため、同じ朝鮮人同士故郷の言葉、ウリマルで話すことも自由にできませんでした。

不本意に故郷を離れ、慣れない異国の地でハンセン病にかかり家族とも切り離され、自分の国の言葉すら自由に話せない。在日朝鮮人患者たちは二重、三重の差別に苦しんだのです。

資料館に隣接している療養所に「望郷の丘」と呼ばれる場所があります。

かつて療養所に一度入居したら一生涯、その敷地の外に出ることは出来ませんでした。

そこで患者たちは望郷の丘に立ち、自身の故郷がある方向を眺めながら、もう二度と帰ることのできない故郷を憂いでいたのです。

多くの朝鮮人入居者もこの丘に立ちコヒャン(故郷)に思いをはせていたのではないでしょうか。

ハンセン病がこんなにも忌み嫌われ差別をされたのは前述の通り国が制度的に差別をし、その結果社会的差別が助長されたのです。差別が差別を生んだのです。しかしそれだけでしょうか。

私はハンセン病に限らず数多くある差別のほとんどが、様々な要因があるとは思いますが、無知と無理解から来ると思います。

無知や無理解が偏見を生み助長され差別を激しくするのです。

これによって差別が正当化され人々の間に浸透していき、知らず知らずのうちに、自分でも気付かずに差別をしているのです。

差別をなくすことは難しいかもしれません。

ですが私は何も知らずに、知ろうともせずに排除、排斥するような人間にはなりたくないと強く思います。

まずは相手を知ろうとする努力をしたいと思います。

小さな努力を積み重ねることが差別のない社会を作っていく大きな一歩になると思います。

(留学同神奈川 看護学部学生)

 

 
     
     
     
 
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