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在日朝鮮留学生同盟中央本部
 
  
 
  ≪留学同通信≫No8  
   
  統一を夢見た人士たち〜金史良〜
 
     
 

 1973年、在日朝鮮人文学家たちによって「金史良全集」が日本語で出版され、1987年には朝鮮民主主義人民共和国で1989年には大韓民国でそれぞれ作品集が出版された。日帝の植民地統治下の朝鮮で生まれ、各地を行き来し朝鮮戦争を経る過程で多くの作品を残した金史良。彼はどのように生きたのだろうか。

 本名、金時昌。一九一四年、平壌府陸路里の両班、裕福な家に生まれ育つ。一九二九年、金史良が平壌高等普通学校二年生の頃に光州学生事件が起き、これにより多くの検挙者が出て、学生だけでなく保護者、朝鮮民衆を巻き込む大きな流れとなった。検挙学生の即時釈放、植民地奴隷教育反対などを唱える声が、やがて日本帝国主義打倒、朝鮮の解放などを求める叫びとなり朝鮮全土に広がっていく。それに伴い、平壌でも学生たちによる抗議デモが行われ、それに波及して平壌高普で配属将校の排斥を求めて同盟休校、首謀者の一人として論旨退学処分を受け日本に渡ることとなる。
 不本意にも日本に渡ることを余儀なくされた金史良は、一九三三年から兄の母校でもある旧制佐賀高等学校に通い東京帝国大学文学部へ進学。そこで出会った同人たちが社会状況を批判的に捉えて発刊した雑誌「堤防」に掲載された「土城廊」は彼の最初の作品であった。朝鮮芸術座という劇団に出入りしていたことが民族的文化運動にコミットしていたとして検挙、未決拘留。その後、各地を転々としながら一九三九年平壌で崔昌玉と結婚、朝鮮日報の学芸部記者となり執筆活動を続け、一九四〇年には「光の中に」が芥川賞候補にノミネートされる。その後、鎌倉警察署で検挙、拘留。その時の釈放の条件として従軍作家となるよう警察に強要されるがそれを拒み、友人たちの尽力により釈放される。
 一九四三年、長編小説「太白山脈」を人文雑誌に連載し始める。この作品は、日本統治下にあえぐ朝鮮民族の悲惨な境遇からの解放と闘い、その後の民族の進路など、彼の理想を描いたものであるとされている。芸術的・民族的抵抗における彼の集大成とも言えるだろう。しかし、その後彼は朝鮮人に対する海軍特別志願兵制度実施における朝鮮の文化関係者による海軍思想の普及、啓蒙のためソウルに派遣されたことを機に、総督府機関紙への朝鮮語での連載を通して朝鮮人を戦争へ駆り出すという統治権力に協力する形となった。自分の志とは裏腹に、彼は挫折感をうちに秘めながら一時執筆活動を辞めてしまう。
 一九四五年春、中国大陸の朝鮮学徒兵慰問団に動員され中国に派遣された時に抗日地区へ脱出。朝鮮義勇軍宣伝隊に加担したが、日本敗戦後の一九四六年に平壌に帰郷、朝鮮芸術家総連盟の国際文化部責任者となり長編小説「馬息嶺」を発表する。一九五〇年朝鮮戦争勃発後、日帝の南方軍従軍記者にならないかとの誘いを断り、当時36歳であった金史良は、従軍作家として人民軍と共に南下することとなる。緊迫した状況の中、人民軍の戦略的後退の際に江原道原州付近の山で心臓病によって落伍したとされているが正確には未だわかっていない。
 彼の死後、一九五五年に作品集が平壌で出版されるもそれ以降、彼の作品は敗勢によって長い間埋もれていた。激動の時代、朝鮮人として芸術的・民族的抵抗を試み、日本の植民地統治下で挫折を経験しながらも民族解放のためにペンを持って闘った金史良の生涯と作品は、今を生きる私たちに多くのものを語りかけるだろう。

 「かりそめにも、不幸にして祖国独立の饗宴に参加できぬようなことになろうとも、筆者に代ってせめてこの記録だけでも、わが勇士たちが鞭うち疾駆する兵馬の背にはこばれ、ソウルへ入城することを望んでやまない。これはわが祖国の自由と民族の解放のために、星空さえみはるかす遠い彼方の異域にあって戦う愛国烈士たちの壮挙を、愛する国内の同胞に伝えたいためである。」(『駑馬万里』)

(編集部)

 
     
     
     
 
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