三国時代
数百年間続いた奴隷所有制社会は、西暦紀元前後封建社会に移行しました。
奴隷所有制国家のあった古代朝鮮の各地に多くの封建勢力が台頭します。それらの中で大きな勢力をもって周辺勢力を統合し国家を形成したのが高句麗、百済、新羅の3国でした。
これらの国が存続した7世紀までを三国時代と呼んでいます。
@三国成立期(313−475)
高句麗は既に前37年頃に成立していましたが、313−314年に高句麗や韓族諸国が楽浪・帯方両群を滅ぼした事を契機に、韓族諸国の国家形成が大きく発展します。その中から、4世紀前半に馬韓の故地から伯済国を中心に百済が、同中葉に辰韓の故地に斯盧国から発展した新羅が成立しました。百済は371年に近肖古王が強国高句麗に大勝して、東アジアの国際社会に頭角をあらわします。新羅も470年頃から百済と対立し、三国時代を迎えました。
A三国争乱期(471−568)
漢江・洛東江流域の諸小国の支配権を巡って、3国が対立・抗争する時期です。三国時代は加羅諸国をはじめ多数の小国が残存していました。
3国はこれらの小国を軍事力によって征服するだけでなく、小国の自治を認めながら協力関係を強化し、それぞれの連合体制に組み入れていきました。
この時期には中国王朝の軍事介入も無く、朝鮮内部の政治的・経済的発展に伴う内発的な統合過程が見られます。
B過渡期(569−617)
新羅が562年に加羅諸国を、568年までに漢江流域を支配すると、3国間での軍事抗争は一時小康状態となりました。
612年以降3度にわたる隋の高句麗侵略では、百済、新羅が隋に高句麗侵略をうながし、隋・唐の朝鮮侵略の口実を与える事になりました。
また、3国の対日外交も次第に整備され、高句麗とは572年以降、新羅とは612年以降、それまでの口頭外交から国書による外交に変わりました。
C東アジア争乱期(618−676)
618年に高句麗侵略の失敗が原因で隋が滅び、唐が建国されます。これを契機に3国間の紛争が激化し、国内体制も中央集権化がすすめられました。
640年代には3国とも政変が起こり、戦時体制を一段と強化して、唐の朝鮮侵略に備えました。新羅は漢江・洛東江両流域の大半を高句麗、
百済に奪われたので、唐に依存して劣勢を挽回しようとします。百済も日本の軍事力を利用するなど、東アジア全体が朝鮮三国を軸にする争乱期を迎えました。
645年から始まる唐の侵略を高句麗は3度退けますが、百済は660年に新羅・唐の同盟軍に滅ぼされ、高句麗も668年に滅ぼされて、三国時代は終わります。
しかし、新羅は朝鮮半島をも支配しようとする唐の政策に対抗して、670年から7年間戦い、唐軍を退けて、統一新羅時代を迎えました。
この統一新羅を朝鮮半島の最初の統一国家とするのが一般的となっているようですが、この時代は朝鮮半島内の新羅のほかに、高句麗の後継者である渤海国が北方(中国東北地方)
にあり、南北に2国家が並立してました。よって、後に成立される、高麗が最初の統一国家と呼ぶのが妥当でしょう。
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