金玉均
金玉均は1851年、父の代から落ちぶれた両班貴族の長男として、忠清南道で誕生しました。6歳の頃には貧しさの為、叔父の養子となりソウルへ向かいます。その後、養父と共に江陵へ移り、16歳(1866年)に再びソウル近郊に戻ります。
金玉均がソウルに戻ったその年、朝鮮では大きな出来事が起こります。一つはローズ率いるフランス艦隊の漢江侵犯と江華島武力侵攻、もう一つはアメリカのシャーマン号の大同江侵犯です。
1850年代〜60年代はイギリス・フランス・帝政ロシア・アメリカなどの列強諸国が朝鮮に対する侵略を強めていった時期であります。前述の2つの事件もその流れで起きた物であり、当時の李朝封建社会に大きな衝動を与えます。しかし、当時の李朝両班貴族は国家と民族の運命に思いを巡らす事もなく、党争と門閥政治にあけくれ争っていました。
当時国政を握っていたのは、幼い国王の父大院君李是応でした。大院君は強烈な鎖国攘夷の政策により、ヨーロッパを始めとする先進諸国の一切を認めませんでした。
このような状況の中、金玉均は青年時代を送ります。そして実学思想を学びながら、古い朝鮮の開化という主題に感銘を受けます。20歳の時には、開化思想家である劉大致、呉慶錫らと出会い、政治思想に決定的影響を受けます。
ここで、実学思想と開化思想について簡単に説明したいと思います。 実学思想とは、伝統儒教である朱子学が李朝中期頃から次第に現実離れして虚学化したのに対し、儒学内部からの内部批判を通して登場した<実事求是>の思想及び学問の事で、実証性と合理性に裏付けられた現実有用の学問であります。また、開化思想はこの実学思想が発展した物であります。 先にも述べたように、1860年代は米・英・仏等の資本主義諸国の武力侵略による開国の要求に対して鎖国攘夷をもって抵抗する大院君の執政時代でありました。
そんな中開化思想家らは、東方君子の国の道を守る「衛正斥邪」(簡単に言うと、「邪」の西洋から汚れなき朝鮮を守らなければならないという思想。)の思想に反対し、封建制度と鎖国を改め、国の近代化をはかり、ヨーロッパ先進諸国の文明を朝鮮に導き、外国の侵略を防ぎ、富国強兵により独立国家を作る事を主張します。
さて、金玉均は20歳頃から青年両班知識人を組織しながら開化派という一つの政治勢力に集結させていきます。1873年には大院君が摂政の座から追われ、閔妃が政権につきます。閔妃は鎖国攘夷の政策を投げ捨て、外国の侵略に妥協と屈服をしていきます。閔妃政権は1875年に起きた、雲揚号事件=江華島事件をきっかけに1876年2月には民衆の反対を無視し、屈辱的な不平等条約「江華島条約」を日本と結ぶ事になります。これは、江華島を砲撃し、永宗島に上陸し武力脅迫をしてきた日本の雲揚号を朝鮮軍兵が撃退したところ、日本政府が「朝鮮側の不法砲撃」であるとでっち上げ、閔妃政権に開港と国交を迫ったものです。これを期に金玉均ら開化派は日本への関心が深まっていきます。 古い朝鮮の開化という主題を掲げていた開化派にとって、明治維新以降急激に近代化を遂げた日本に関心を持ったのは自然な流れだったのかも知れません。
こうして金玉均らは、日本の侵略性に危険を感じながらも訪日への準備を進めていくのです。
日本と結ばされた屈辱的な不平等条約「江華島条約」を機に、金玉均は日本に関心を持ち始めます。そして、国王・高宗を説得し、1882年初めて日本の地を踏む事になります。日本の視察を行いながら金玉均は、日本をモデルにして朝鮮のブルジョア革命を行おうという結論に至るのです。
1882年7月、帰国途中の下関で、金玉均は祖国の地で起きた「壬午軍乱」の報に接します。これは朝鮮の下級軍人と貧しい民衆の不満が爆発し、反日・反閔闘争に発展した物で、彼らは日本公使館を襲撃するなどして、大院君を復帰させます。ところが、閔姫一派の要請により清国の武力弾圧が行われ、大院君は拉致されてしまいます。これより守旧派閔氏政権は基本的には清国軍、つまり外国軍の威圧下にあったと言えます。
さて、日本はこの軍乱を利用し、朝鮮に対し「済物浦条約」を強要します。日本の武力弾圧を恐れる閔氏政権はこれにあっさりと応じてしまいます。その内容は、50万円の賠償金、公使館護衛の為の軍隊駐留権等でした。最後の条には、日本への特使派遣(修信使の日本派遣)がありました。
これより、開化派の改革運動がより積極化される事になります。 1882年9月、修信使が派遣されますが、金玉均は顧問として日本に2度目の訪問を行います。金玉均の目的は日本政界と接触し、その協力の可能性を打診する事にありました。日本は表面上は「国王の委任状があれば借款に応じる」など、協力を表明します。当時日本では朝鮮に対する政策について意見が分かれていました。しかし、まだ清国と真正面から対立する準備が無い事などから上のような約束をしたのだと言えます。
開化派はその侵略的真意を読み取る事が出来ませんでした。 1883年7月、金玉均は国王の委任状を持ち、3度目の訪日をします。しかし待っていたのは日本の裏切りでした。 日本は朝鮮に開化派政府が樹立される事を望んではいませんでした。その開化派に金を貸すくらいなら、軍備を増強して清国を倒したほうが朝鮮侵略の近道と考えたのでしょう。
この頃から守旧派政府は開化派に対する締め付けを強めます。日本にも裏切られ、命の危険すら覚えるようになった金玉均は平和的改革を断念する事になります。開化派は政変によって閔氏政権を崩壊させ、清国との従属関係を清算する事を決定します。その頃、清仏関係が悪化し、清は敗北します。朝鮮に駐留していた清国軍の約半分の1500人が撤収をし、開化派に有利な条件がそろい始めます。
日本公使の竹添が金玉均に接近してきたのはちょうどこの頃です。日本は清国の敗北を機に開化派を利用して、朝鮮から清勢力を払拭する事を考えていたのです。金玉均らはまたしても、この日本の真意を読み取る事が出来ず、日本公使館側の後援を確認し、1884年12月4日「甲申政変」へと踏み切るのです。
朝鮮の近代的発展を願い、日本をモデルにその可能性を探っていた玉均ですが、閔氏勢力による弾圧や日本の裏切りなど複雑な情勢の中、遂に武力による改革を決意します。1884年11月14日、玉均は開化派勢力を集め政変の方法と計画を提案します。「甲申日録」には以下のように記されています。
「我々は数年の間、あらゆる苦労に耐えながら平和的手段で国政改革をしようとして力を尽くしてきた。しかし、成果は上がらないばかりか、今や死に直面する事になった。かくなる上は座して死を待つより、先に敵を打ち倒さなければならない状態になった。従って、我々はひたすらにこの一路を進み、決心を貫かなくてはならない」
1884年12月4日午後7時、郵政局開設の祝賀宴が行われていました。そこには守旧派の閔泳翊らを始めとして、多数の各国外交官、また金玉均らも参加しました。9時ごろ、クーデターの合図と共に開化派は隣に火を放ち、その混乱の中守旧派を殺害します。
玉均は直ちに国王高宗に政変を知らせこれを支持させました。また朝鮮軍隊を反革命側の反撃に備えさせる一方、日本軍をして王宮の防衛にあたらせました。そうして新政府を組織し、6日には政綱を発表します。 玉均は新政府にて、財政部を握りながら実質的な指導を行う事になっていました。 以下に政綱の一部を紹介します。
一、清国への朝貢虚礼を廃止する事(自主独立国家の宣言)
一、門閥を廃止し人民平等の権利を制定し、才能によって人材を登用する事
一、全国の地租法を改革し、官史の不正行為を根絶し、人民の負担を軽くし生活を保護すると共に、国家財政を充実させる事
しかし、政変の発展にためらった日本は、開化派政権の支持に踏み切りませんでした。逆に閔妃一派は清軍に保護を求めました。清国はそれら守旧派の残党と連合し、朝鮮に対する武力干渉を始めます。それを見た日本公使竹添は、「日本軍はその政変を清国の攻撃から守る」という当初の約束を破り、日本軍を引き連れ逃走してしまいます。
12月6日、開化派政府は清国の襲撃を防ぎきれず崩壊してしまいます。 まさに「三日天下」となってしまうのです。玉均は運動の再起をはかるため、日本に亡命する事を決意します。 12月末、玉均は東京に到着します。日本政府は甲申政変が失敗した事や、清国と朝鮮の守旧派政権との関係を考慮して亡命者金玉均を監視し、様々な迫害を加えました。その後、小笠原諸島への追放、北海道札幌への移送監禁などを経験しながら、朝鮮の改革に対する情熱はますますつのります。
そして、日本を頼る革命はありえないと確信するようになります。 1894年、玉均は清の巨頭、李鴻章と会い東洋の将来と清の朝鮮に対する政策、日本の朝鮮侵略問題で話し合う決意を固めます。しかしこれも、それをそそのかした、李鴻章、朝鮮政府、日本政府の罠でありました。
1894年2月29日、上海の旅館に玉均、和田少年(玉均の書生)、洪鐘宇、清国駐日公使通訳ウ・パオレンらの宿泊していた所を、刺客であった洪鐘宇に3発の銃弾を撃たれ暗殺されます。
洪鐘宇は朝鮮政府の意を受けた李イルチッの代理として同行していました。 李イルチッは玉均に対し、資金援助を約束していたのです。当然嘘の約束であります。1894年4月12日、国事犯として玉均の遺体は朝鮮につきます。 待っていたのは「凌遅斬の刑」(首をはね、4肢を断ち、胴体を刀で切り刻む刑)でした。ソウル郊外漢江の楊花津には玉均の首と共に 「大逆不道玉均」の白旗が立てられました。
こうして朝鮮の改革を夢見て生きた玉均の人生は幕を閉じるのです。玉均の改革が失敗した原因としてはいくつか考えられますが、まずは朝鮮の社会がまだ未熟であった事、そして玉均自体が大衆の中に入れなかった事、また後に玉均自身も反省する事になるのですが、日本つまり外勢に頼ってしまった事などが挙げられるでしょう。
玉均の一生を見てみると、彼自身が大衆、特に農民の中で活動を行った事がほとんど無く、自分の周りだけで改革を行おうとしている事が分かります。1894年、反侵略・反封建の甲午農民戦争のさなかに殺害された事を思えば、彼の変革思想の弱さと狭さは、彼が反日と守旧派権力打倒を渇望した農民大衆の力を見る事が出来なかった所にあると言えます。
とはいえ、彼の思想や活動は、その後の朝鮮社会の近代的発展を促す様々な運動や試みに、大きな影響を与えたのでありました。
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