李圭報
李奎報は1169年1月15日、京畿道ホワンリョの貧しい両班の家に生まれました。
「私は雲を愛する。瞬くうちに変わってゆく雲ほど変化するものは無い。人の想像も及ばない雲を愛する」と語った彼は、自らの号を「白雲(ペグン)」となずけました。
李奎報が生まれ育った12世紀後半は、農民暴動と反乱にあけくれていました。
ここで詳しくは述べませんが、1170年には高麗王朝の実権を握る両班貴族の文臣政治に不満を抱く武臣鄭仲夫らによるクーデターが起こり、1176年には中世社会を震撼させた亡伊(マンイ)と亡所伊(マンソイ)が指導する大農民暴動が起きました。これは虐政と飢えにあえぐ最下層民衆の怒りであり、奴隷と変わらない境遇からの開放を要求する戦いでありました。
また、李奎報11歳の頃、「西北賊」と呼ばれた平安道の金且(キム・ダン)・曹忠(チョ・チュン)らが指揮する農民暴動は、
鎮圧されたかに見えながらまた立ち上がりました。それは1179年頃まで続きました。このような農民闘争と武臣反乱は、高麗王朝の支配と権威を弱めるばかりでありました。
李奎報は、幼少の頃から儒学の研修のために各地をめぐる父にしたがい成州、水州などの地方で暮らしましたが、少年期は都の開城ですごしました。
彼は少年とは思えないほどの集中力で儒学や仏教について学んだといいます。
文筆の才能は素晴らしく人々の注目をひき、9歳のとき作った文章を見て人々はその才能に驚き、李奎報をさして「奇童」が現れたとうわさしたとの事です。
高麗の歴代王朝(918〜1392)を取り扱った「高麗史」(139巻70冊)の3巻「李奎報列伝」は、次のように記しています。
「幼い時から賢く、9歳の時には既に属文(本を読んで文章を書くこと)を良くし、奇童と呼ばれた。まもなく経史
(中国の儒教古典である「経書」と「史記」)と諸子百家(中国の春秋戦国時代の諸派の説)の学説、および仏教学や老子の書物までも、一度読むとただちにそれを我が物にした。」
少年から青年期にかけて李奎報は、仏教・儒学を問わず学問の研究に打ち込みました。特に自国と中国の歴史・思想、様々な学説を読み込みました。この時期の学習は、後の李奎報の歴史・文学と、知識・思想の土壌となったばかりでなく、合理的な思考方法を培うのに役立ちました。
李奎報は、またこの頃から、自然や社会の様々な現象や動き、制度・風俗・慣習を鋭く見つめてゆきます。
このような現実に対する観察は、後の李奎報の思想と哲学を特徴付けることになります。
とりわけ若き李奎報の文学就学に大きな影響を与えたのは、「海左七賢(ヘヂャチルヒョン)」と名づけられた「詩会」に参加した詩人・文学者やインテリ両班たちの創作活動でありました。
これらの文学者たちは、権力者に対して批判的な立場をとり、権力者におもねり、権力者や富者にこびる文学を排し、中国を模倣したり古い時代の文学にしがみつく復古主義的な文学潮流に反対して、新しい文学を創造することを主張しました。
李奎報は海左七賢の詩会とのふれあいの中で、武臣政治を厳しく批判するようになります。この頃彼は、親の説得もあって、
しぶしぶ科挙の試験を受けることになりますが、いずれも不合格でした。時の両班支配層は、李奎報の批判思想をとがめて処置したのです。
その後、22歳のとき、進士(科挙試験によって得られる一つの地位)の試験に合格しますが、政府は官職を与えませんでした。
試験の席上、李奎報が武臣政治を批判したためです。彼はその時の感慨を次のようにあらわしています。
「畑する老人に従おうとも 一瞥(いちべつ)もしまい 金銭で官をうる者を」
当時、両班の身で官職に就けないことは、中世封建社会にあっては絶望を意味することでありました。その後、こびへつらって生きることを拒んだ李奎報は、武臣権力者に対する強い不信と不満から、空しく虚ろな都の生活を捨てて自然と田舎に親しむようになるのです。
李奎報は高麗時代の農民暴動のいきいきとした運動と、衰微してゆく支配層の無気力さと怠惰をひしひしと感じます。
彼はこの様な現実に飛び込むよりは、創造と探求の道を選びます。
1192年、24歳のとき、天摩山(チョンマサン)に入り、全精力を傾けて歴史書の研究と文学の創作活動に深く沈んでゆきました。
天摩山に入ってからの数年間、李奎報の研究と創作活動はすさまじく、この間に彼の思想と文学活動は深められ磨かれてゆきました。
そのため、天摩山以後の李奎報はそれ以前の彼とは区別されます。
1194年、26歳のとき、李奎報は長編叙事詩「東明王(トンミョンワン)編」を生み出します。
これは、高句麗建国の朱蒙(チュモン)説話を素材にした作品で、深い歴史研究と芸術的形象力にうらうちされた叙事詩でありました。
彼はこの叙事詩を通し、自分達の時代の権力者たちが、いかに愚かで、弱者にはいかに残忍であるかを揶揄しました。
聖人の国を誇り高くうたう李奎報は、詩を通して自分達の時代の現実の惨めさを対比します。
そして、この国の西北方から絶えず侵入してくる北方諸族の侵略を念頭において、人々の国土への愛と誇りを促しました。
さらに李奎報は1195年、27歳のとき、長大な史詩「天宝詠史(チョンボヨンサ)」を著します。唐の玄宗皇帝を素材にしたこの詩は、民衆の苦しみと悩み、血と涙の上に築かれた玄宗の退廃した生活とその世界が、華やかで満ち足りたものではあるが、無気力で、腐りきった官能的な生活である事を暴きます。そして、ただの一度も貧しい人々の暮らしに思いをはせた事の無い君主を描きながら、若き李奎報は貧民の悲しい境遇にあつい同情と思いやりを注ぎました。
暖かい香気を匂わせて、寒さをふさぐ辟塞犀(モクソクカ)という花を愛した玄宗皇帝を素材にして、李奎報は次のようにうたいました。
ほのぼのとやすらぐ香り
室(へや)はぬくもる春のまどろみ
君主(きみ)は なお冷えると
寒さふさぐ辟塞犀を愛しむ
そは 凍てつく冬の日
ふりしきる雪はつもり
貧しき 荒屋(あばらや)に
人は 寒さにうち震う
李奎報は、退廃的な生活に溺れて国を滅ぼした玄宗を描きながら、堕落した高麗王朝社会を痛烈に批判しました。
この作品を通して、彼は現実批判を更にすすめたといえます。
李奎報の権力支配層に対する批判は、そのまま虐げられた農民の悲しい立場に対するあつい同情としてうたわれました。
この頃の作品と思われる詩「穀物をうたう」で次のように嘆いています。
粒の一つを軽んずるなかれ
人の生死 貧富がそこにあり
われ仏のごとく 農夫を重んず
されど仏は飢餓をすくえず
李奎報は叙事詩「東明王編」をはじめとする数々の傑作を生み出していった1190年代は、農民闘争がよりあらたな高まりを見せていた時期でありました。この活き活きとした現実の運動は、農民にあつい同情をよせる李奎報野文学精神と創作活動をつき動かしていきました。
しかし李奎報は、民衆や農民の立場を理解し同情し涙しましたが、農民の立場そのものではありませんでした。彼は農民暴動をただの一度も肯定した事はありませんでしたし、この様な暴力には反対でありました。彼は両班貴族であり、農民への同情と愛は貴族の立場からであって、高麗封建制度の否定者ではなかったのです。
その後、高官への道を徐々に歩みだした李奎報は、崩れ行く高麗王朝制度の立て直しに努力します。
また文学者としても多くの散文・詩を創作してゆきます。
しかし30代後半からの李奎報は、現実に対する認識と分析を深めてゆきますが、現実政治への批判から遠のいてゆきます。
それは、政府高官の道を進む李奎報の保守的な政治姿勢でありました。
詩人李奎報は、政治的現実の批判者であるよりは、より思想家としての道を歩んでゆくのでした。(つづく)
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