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在日朝鮮留学生同盟中央本部
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南朝鮮闘争の歴史
1.李承晩と4.19学生革命
1)李承晩
1945.8.15
 「大韓民国」創建→初代大統領 李承晩

1950.6.25  朝鮮戦争勃発 「韓国」政府は釜山にて乱を避ける

1952.5
 国会の多数派を率いていない李承晩は、大統領選挙を国会による間接選挙で選ぶのではなく、大統領直接選挙制を掲げ、戦争中ではあるが憲法改正を図った。
   ↓
 釜山を中心とした地域に戒厳令を布き、暴力団を動員して国会の解散を要求。
   ↓
 抵抗する議員50余人は国際共産党から資金提供を受けたとして、憲兵隊に連行。
   ↓  警官が包囲している国会で議員達の起立表決によって通過。

1953.7.27 停戦協定締結→反共が国家理念に(益々強化される)

1954.4.11 大統領3選を狙い、もう一度憲法改正を試みる。→「四捨五入改憲」
 憲法改正には国会議員の3分の2以上の賛成が必要であった。開票の結果は在籍議員203名のうち135名が賛成。203の3分の2は135.3強だから四捨五入すれば135になるとして、改憲案成立を宣言。

1956.5
 大統領3選    ↓
 南人民の不満は高まるばかりであった。→「赤狩り」の実施。

1958
 新国家保安法を人民と野党の抵抗の中、警護権を発動して与党議員だけで通過。

1959.4
 政府に批判的な「京郷新聞」廃刊。
 知識人、学生を中心に人民大衆の批判は日増しに強くなってゆく。

2)4.19学生革命
1960.3.15
 第5代副大統領選挙における不正が原因。
   ↓
 慶尚南道馬山で、不正選挙糾弾のデモが起こり警察署を襲撃。80余名の死傷者。
   ↓
 行方不明の17歳の金朱烈少年の惨殺(ざんさつ)死体が発見され、抗議の声は全国に。
 (3・15デモに参加。催涙弾により死亡したのを警察が生みに投棄)
   ↓
 4.19 全国の中高生までを含めた学生が李承晩政権打倒に立ち上がる
      2万名以上がデモに参加。142人が死亡。
   ↓   非常戒厳令が布かれる。

 ※ ソウル大学の宣言文(最後の数節)
「見よ!我らは喜びに溢れ自由の烽火をあげる。見よ!我らは暗闇の沈黙に自由の鐘を乱打する打手の一翼であることを誇る。日帝の鉄鎖(てっさ)にも狂わんばかりに自由を連呼したわが父、わが兄弟のように。良心に恥じることが無い。孤独でもない。永遠なる民主主義の死守派は栄光に満ちている。現実の裏道で勇気を失い自虐を噛締めていた群も我らの隊列に続いている。行こう!自由の秘訣は勇気なのだ。我らの隊列は理性と良心と平和、そして自由への熱烈な愛の隊列である。全ての理は我らを保障する。」

   ↓
 4.25 大学教授団(258名)のデモ→市民・学生が続き1万人以上に。
   ↓
 4.26 李承晩退陣


2.5.16軍事クーデターと朴正熙
1)5.16クーデター
 4.19学生革命以降、民衆はより根本的な改革を求める
  @ 自由と民主主義
  A 祖国の自主的平和統一
  B「韓国」経済の自立化

 ※ 4.19ソウル大学第二宣言文
「民族の前衛である我らは、父母兄弟達の熱狂的に絶叫する統一への歓呼を聞き、祖国の北方で必ず我らと共感しているはずの兄弟達と相抱き合って大地を叩き、号泣したいのだ! 兄弟達よ!我らの方に来たれ!そして皆共に行進しよう!北の兄弟達と一緒に光輝(こうき)に満ちた祖国の明日を討議するために、南北学生会談の広場に進み出よう!歴史はこの瞬間、我らの側に味方している。」

1961.5.16
 朴正熙陸軍少将率いる軍部隊が、クーデターに成功。(アメリカはクーデター勢力が反共・親米のスローガンを掲げたため追認)
 ※ 「革命公約」
  一、 今までスローガンに終わっていた反共体制を再整備する
  二、 国連憲章を遵守(じゅんしゅ)し国際協約を誠実に履行して米国を始めとした自由友邦との紐帯(ちゅうたい)をいっそう強固にする
  三、 現政権の腐敗を一掃し退廃した国民道義と民族正気を振作する
  四、 絶望と飢餓の中で喘いでいる民生苦を直ちに解決し国家自主経済体制を完成する
  五、 国民の宿願である国土統一のために反共実力を培養する
  六、 このような我々の課業が成就(じょうじゅ)されれば、新しい良心的な政治人たちに政権を移譲し、我々は本来の任務に復帰するであろう
 愛国同胞の皆さん!
 我々軍事革命委員会を全幅的に信頼してくださって動揺することなく正業に従事してください。

   ↓
 反共とアメリカとの友好が中心に謳われる。
 はじめ、軍事革命委員会の副議長におさまった朴正熙は、7月3日には議長(張都映)を解任、逮捕し自身が議長に座った。    ↓
 以降、全勢力を掌握するまで、粛清工作は後を絶たず、「革命公約」は踏みにじられた。(初めからその意志なし)

1962.3.22
 尹?善大統領が辞任すると、朴正熙は自らが大統領権限代行となる。

1962.6
 KCIA(中央情報部)発足 初代部長 金鍾泌

1963.12.17
 大統領就任
 ※ 50年代には8.8パーセントであった政治・行政の幹部の間における軍部出身者が、60年代には44パーセントに急増

2)「韓日条約」
 アメリカの意図(反共戦線の強化のため)と近代化の為の意図が一致

1961.11.12
 訪日

1965.6.25
 「韓日条約」締結
 問題点のいくつか
 第2条 「1910年8月22日以前に締結されたすべての条約および協定は、もはや無効であることが確認される」
  → 36年間の日本統治が合法化されている
 第3条 「朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」
  → 賠償でなく「請求権・経済協力」→3億ドルの無償資金と2億ドルの政府借款および3億ドル以上の商業借款
    また在日朝鮮人に対しても棄民政策をとる

 日本側「36年間にわたる日本の朝鮮統治は朝鮮の近代化に有益なことも多かった」
  →それが帝国主義というならば「栄光の帝国主義である」

 仮調印を前後して南朝鮮人民の闘争はピークを迎える → 自主平和統一に対する阻害要因、再び政治的・経済的に日本への従属の道を開くことになる
   ↓
 63.3から6月にかけて学生を中心とするデモが高揚→非常戒厳令によって抑圧

 ※ 当時の新聞の見出し
「東国大生金仲倍君死亡、警官に打たれ踏みつけられて」
「野・民衆党声討大会、犠牲覚悟で最後まで闘争」
「繰り返される大学街の休校令、校門を開け」

 ※ 357名が署名したソウルの大学教授団宣言文(65年7月12日)
「大韓民国の主権者は厳然と国民である。国民は政府の政策をいつでも自由に批判する権利を持つ。にもかかわらず政府は国民の沸きだぎる世論を、催涙弾と警察棒による暴圧と仮飾に満ちた宣伝で封鎖する一方、日本に対しては理解できないほど焦り伏して、乞うように屈辱的な協定に調印してしまった」

 ※ 詩人、イム・ソクホンが無期限断食に入りながら新聞に寄せた一文
「いかなる時よりも今は国家の危機」
「最後の一人まで、最後の一刻まで闘わねばならない」
「民族は民族自身が救うもの」
「生き残って奴隷となるよりは人間らしく死ぬのが光栄」

8.22
 ソウルで大学生、高校生など一万余人がデモ行進した。
   ↓
 高麗大学、延世大学などに武装軍人が乱入。ソウル地区に衛戍(えいじゅ)令

3)全泰イル焼身自殺事件
 裁断工として働いていた
1970.11.13
 勤労条件改善要求を叫びながら、全身に石油をかぶり焼身自殺(22歳)
 勤労基準法の小冊子を手にしながら
  「勤労基準法を遵守せよ!
   私たちは機械ではない!
   日曜日は休日にせよ!
   労働者たちを酷使するな!」

 と炎の中で叫んだ。
   ↓
 以後、20余年におよぶ軍部政権との戦いにおいて、数十名が焼身自殺をもって抵抗するさきがけとなる。

4)朴正熙3選
1969.10.17
 行政的操作により憲法改正

1971.4.27
 金大中を破り当選→不正選挙

1971.4.18
 在日同胞、徐兄弟「在日僑胞学生学園浸透間諜団事件」をでっち上げられ逮捕,一審 死刑

5)南北共同宣言と10月維新
1972.7.4
 南北共同宣言→自主・平和・民族大団結
 政治的流動化に対し、突然「大統領特別宣言」を発表し国会を解散→全国に非常戒厳令
   ↓
 戒厳令下での国民投票→「統一主体国民会議」をつくり大統領に就任
 維新体制という、さらに暗い日々が続く

6)金大中事件
1973.8.8
 東京のホテル・グランドパレスから拉致

1973.8.13
 ソウルの自宅に現れる

 中央情報局の犯行であることは明らかである。

7)緊急措置権
 事態が起こる前に予備的措置として発動できる→大統領一人の意思によって発動可能
 ※ 第一号全文
  一、 大韓民国憲法を否定、反対、歪曲または誹謗する一切の行為を禁じる
  二、 大韓民国憲法の改正または廃止を主張、発議、提案または請願する一切の行為を禁じる
  三、 流言蜚語を捏造、流布する一切の行為を禁じる
  四、 上記の第一、二、三項において禁じた行為を勧誘、扇動、宣伝したり、放送、報道、出版、その他の方法でこれを他人に知らせる一切の言動を禁じる
  五、 この措置に違反した者とこの措置を誹謗した者は、法官の礼状なしに逮捕、拘束、押収、創作し15年以下の懲役に処する。この場合は15年以下の資格停止を併科することができる
  六、 この措置に違反した者とこの措置を誹謗した者は非常軍法会議において審判処断する
  七、 この措置は1974年1月8日17時より施行する
   ↓
 この維新体制下で大学や職場を追われた人の数は5万名を越えた。

8)朴正熙暗殺
1978年にもいたるところで大規模なデモが起こる。
12月12日の第10代国会議員選挙では、軍部政権の不正行為にも関わらず、野党の新民等が得票率で1.1パーセント上回る。

1979.10.26
 中央情報部長 金載圭により暗殺される。


3.全斗煥と光州事件
1) 全斗煥の登場
戒厳令→金載圭を調べるという立場から急上昇(当時陸軍保安司令官)

1980.5.24
 金載圭を処刑(非公開)
 大統領を直接選挙で選ぼうと大々的なデモが連日繰り広げられる
   ↓
 金大中、金泳三、金鍾泌が政権掌握を狙う(三金時代の始まり)

1980.5.17
 学生たちのデモが膨れ上がるのを待ち、ついに戒厳令を出す。
   ↓
 金大中をはじめとする民主運動の指導者たちを逮捕(北朝鮮の工作員の影響を口実)

2) 光州事件
1980.5.18
 全羅南道光州市で多数の市民が虐殺される
 学生・市民の民主化を要求するデモを空挺部隊を投入して鎮圧。多くの市民を手当たりしだい虐殺した。→19日にはデモは20万人に膨れ上がった。
   ↓
 激高した市民が武器を取って戦う寸前までにいたった。

1980.5.27
 軍隊によって光州市は鎮圧
 逮捕者 2200名、死者193名(軍部発表)、民間では2000人との説もある。
 これを容認したアメリカの政策に対する反感も高まった。

全斗煥はこの市民蜂起を金大中の指令によるものだとして、軍事法廷で死刑を宣告する。

 ※  光州市内にまかれたチラシ
「道民の皆さん!この悲痛な血に染まった光州市民の憤怒を知っているのか。3千万愛国同胞よ!恨みに満ちた死の声を聞いたのか。民主軍隊よ、答えよ!あの吸血鬼、殺人魔全斗煥と維新残党の奴隷らを殺すべきか。でなければ民主化を叫ぶ純朴な愛国市民たちを殺すべきなのか。」

3) 金大中内乱陰謀事件
1980.9.17
 金大中に死刑宣告、他23人に20年までの重刑
   ↓
 国外で金大中救命運動
1981.1
 無期懲役に減刑

1982.12.23
 刑執行の停止→アメリカに出国させる

4) 過去に葬られた光州事件
1994.5
 光州事件の被害者600人が全斗煥、盧泰愚二人の全大統領を含めて光州事件関連者58人を告訴。
   ↓
 検察:光州事件が政権掌握を目指した全斗煥らの陰謀であったこと、数多くの無実の市民を虐殺したことを認め、金大中内乱陰謀事件も全くのでっち上げであったと発表。しかし検察は、成功したクーデターに関しては、公訴権を持たないと決定した。

5) 6月抗争
 光州事件によって、運動はさらに沸きあがった。
  ↓
 焼身自殺が相次ぎ、若者が牢獄へと引きずられ、1986年には逮捕された女子学生が裸にされて拷問されるという「性拷問」事件まで起こった。
 さらには1987年1月には、朴鍾哲というソウル大学の学生が拷問によって息を引き取った。   ↓
 これらは捜査のためではなく、暴力に恐怖心を抱かせて、運動を止めさせようという組織的な計略の一環であった。
 6月にはいるとデモはますます激しくなった。→一人の市民が催涙弾に打たれて死亡(7月5日、李韓烈学生)
  ↓
 6.24 延世大学に数万名の学生が集まって「国民平和大行進」を始めた。この行進は27日には130万人に膨れ上がった。

1986.6.29
 盧泰愚代表委員が大統領に代わって「直接選挙制年内改憲」を宣言。
  ↓
 「6.29宣言」→「6月抗争」

7月9日
 李韓烈学生の民主国民葬に100万人の市民が集まる。
 ※ 李韓烈学生が残した詩と言葉
 「だだっ広い広場、その熱気の下に
 チラシがばらまかれ
 催涙弾が落ち
 ファッショ打倒を叫ぶ
 青カバ(戦警)に同行される
 米帝を学習し討論の夜を明かす
 民主のために、自主のために
 この地の人間開放のために
 暁の冷たい露に若さを飲む
  (中略)  空の下、入っていった我らの森の中で
 愛を感ずる
 胸いっぱいの愛を感ずる
 一さじでおなかを満たし
 美しい巨木の身ぶりを見る
 新しく生きてゆく君の身ぶりを
 愛する、生きる」

4.まとめ
 朝鮮民族の歴史は闘争の歴史である。それは米帝を始め、それに追随する軍事独裁政権、反民主勢力、反統一勢力との戦いである。 民族の自主を取り戻すため、常に学生たちが先頭に立ち全てを犠牲にして戦ってきた。
 現在においても国家保安法は存在し、民主勢力が不当に逮捕・連行されている。我々は外勢・反民族勢力に対し、決して妥協してはいけないし、戦い続けなければならない。
 我々が求めるものは、民族自主である。民族自主が成り立ってこその統一であり、民族解放である。彼らの崇高な精神に学び、共に手をとり行動することが何より重要である。
独島は一体誰の土地なのか? ―歴史的・国際法的検討―
 
 
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