亀甲船
1592年4月の豊臣秀吉による朝鮮侵略(壬辰倭乱)の時の話です。
壬辰倭乱は朝鮮民族にいやしい難い傷を負わせました。豊臣軍の兵力は陸海軍合わせて21万人という大規模なものでした。
豊臣軍は5月にソウル、6月にはピョンヤンを攻略しました。
秀吉の夢はまさに実現寸前でありましたが、その野望を打ち砕き、戦局を転換させる重要な役割を果たしたのが李舜臣将軍の率いる水軍が駆使した亀甲船(コブッソン)だったのです。
李舜臣将軍と共に海戦に参加した甥の李芬は、「李舜臣行録」の中で亀甲船について次のように書いています。
「亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦艦)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」、「前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ」
「戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後からいっせい砲火やられた」
「李忠武公全書」(1795年)によると、亀甲船の構造は底板の長さ14.2メートル、舷板最下第一板20.6メートル、舳板(船尾)上4.4メートル、頭の広さ3.6メートル、最上級第七板34.2メートル、下の広さ3.2メートル、腰の広さ4.4メートル、高さ2.3メートル、尾の広さ3.2メートル、厚さ0.12メートルとなっています。
これから分かる事は、形が細長く流線形で速い速度が得られるようになっており、また安定度が高く、船材が非常に丈夫な特殊船であったという事です。厚板と鉄甲が戦闘員と装備を保障し、体当たり攻撃をしても壊れる事が無く、優秀な火砲を備えていたので、敵を思う存分攻撃する事が出来ました。
この亀甲船によって李舜臣将軍は、緒戦から4ヶ月間に300隻余りの艦船を葬り去り、海に補給路を頼る敵軍には致命的な制海権を握り、大打撃を与えたのでした。
亀甲船の模型
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